アジャイルが本当に改善したいのは、モチベーションなのでは?というお話です。
先日、セブン銀行さんの取材をしました。
セブン銀行さんに内製によるアジャイル開発のメリットをお聞きしたところ、よく言われる開発スピードや柔軟性の向上よりも「モチベーションが上がったこと」のほうがインパクトが大きかったとお話されていました。
でなぜ、アジャイルだとモチベーションが醸成させるのか、今回ほぼコラムですが考えをまとめてみました。
諸悪の根源は、構想と実行を分けた分業化?
アジャイルの一つの特徴として、チーム内において上下の序列をなくし、全員が同じ立場で意見を述べあい相談しあいながら開発を進めていく点があります。
この特徴は「分業化を撤廃した領域」という風にも言えるのではないでしょうか。
日本のエンジニアの約8割が所属するシステムインテグレーション業界は、分業化の最たる例。上流が構想したモノを、下流が言われた通り作る業界構造です。エンジニアは下流に属し、言われたモノをその通りに作るロボットと化しています。
「構想」は上流・「実行」は下流、という分業の形はシステムインテグレーション業界に限ったものではなく、現在のビジネス構造全体に当てはまるものです。
そして、アジャイルはそんな世の中の構図にとらわれず、構想側の人間も、実行側の人間も等しく判断材料を持ち、意見を出し合いともに考えていく領域を作る試みのように感じられます。そのため、下流でロボット化されていたエンジニアが、チームではイチ・ブレーンとしての活躍を求められるわけです。
そもそも「構想」と「実行」は分かれていなかった
私たちは生まれたときから資本主義であり「構想は上流・実行は下流」という構図が一般的なことでした。
ですが資本主義になる前、人間の労働は「構想」と「実行」が分かれていませんでした。
なぜ分かれたのか。生産性を上げるためです。
その昔、職人は頭の中でどんな椅子を作ろうか構想し、その構想通りの椅子を道具を使って作り上げ販売することで生計を立てていました。ですが、生産を職人の構想力や技術に依存するとなると、職人の作業ペースに合わせなければいけなくなり、生産力を上げることができません。
そこで資本を持つ側の人間は職人の一連の作業を細分化していき、誰でもできる単純作業の集合体に再構築することで、生産性を上げる仕組みを作りました。その際「構想」部分は、資本を持つ側の人間に独占されていき、やとわれた労働者たちは資本側の構想を「実行」する役割を担わされるようになった、というのが分業化の起こりです。
よくモノ作りの人を職人と呼びますが、本来は「構想」「実行」両方やる人が職人と呼ばれるべきで、「実行」だけの人は職人ではなく労働者。分業化が著しく発展してしまった世の中において、職人はほぼいない状態なのかもしれません。
分業化によって、衝動なき構想が蔓延した
分業することによって生産性を上げた。
これだけ聞くとそれほど悪いことではないように思えます。ですが、ここで眼に見えない重要なものが失われます。それが「モチベーション」です。
そもそも「実行」は、時間も労力もお金もかかる非常に面倒な行為です。料理を作る、家具を作る、絵を描く、文章を書く、すべてそれなりの労力が必要です。
その面倒を越えて実行するのはなぜか。実行した先に出来上がるものが「世の中にないモノだから」「面白いモノだから」「自分が欲しいモノだから」「すごい儲かるモノだから」です。自分が考えた強いモチベーションを感じる構想がそこにあるから、面倒を超え実行するわけです。
ですが、そのモチベーションの源泉となる構想を資本側に持っていかれるのが現代です。つまり、モチベーションを搾取されているわけです。お金というインセンティブを与えられても、自分が考えた構想でなければモチベーションが上がり切ることもありません。
その上、構想側の人間に「それで飯食ってんだろ、しっかりやれ」と言われてしまえば、もうやる気など起きるはずがありません。さっさと要件定義書に書かれた通りのことを作って終わりにしたい、と思うようになるのは自然なことです。
さらに問題なのは、実行する側の面倒を十分理解せず、構想側のポジションに付く人間が急増していることです。実行する面倒を理解せず構想すると、実行の面倒に釣り合う構想案が浮かびません。「これは、面倒を超えてでも作らなければいけない」という衝動がある構想案が浮かばなくなるのです。ゼロイチが出来なくなるという言い方もできます。
学歴社会の弊害はこのあたりにもあります。高学歴は、実行ポジションを十分に経験することなく、お金がいい構想側のポジションに付きます。すると衝動的な構想が浮かばなくなるほか、実行側の苦労とモチベーションを搾取している立場を理解してないがゆえに、実行側の人間を奴隷あつかいしている言葉を無意識に使ってしまいます。
たとえば「作る人は作ることが好きだからその仕事をしている」という言葉。ここまでお話してきた通り、自分で構想してないモノを作らされることは本来苦痛です。仕事だから仕方なくやっている、もしくは好きと自分に言い聞かせて仕事しているだけです。
こうしてモチベーションという眼に見えない資産がズタズタにされることで、不要な類似品が次々生産される世の中ができあがっていたのではないでしょうか。
構想すらも放棄しはじめた構想側
それでも、構想する側がしっかり構想していれば、実行側のモチベーションも一定保たれる可能性はあったはずです。
ですが構想側が構想せず、構想を投げてしまっているケースも非常に多いのが実情です。
私は昔、広告制作会社でプランナーの仕事をしていた時期があるのですが、実はこれはおかしいことです。(おそらく、エンジニアを取り巻く環境と似たような話です)
広告制作会社というのは、その上のポジションである広告代理店から指示された広告クリエイティブを制作する会社です。つまり、実行ポジションの会社です。プランナーは本来広告代理店にいるべき職種です。
なぜ制作会社にプランナーポジションがあったのか。取引している代理店に考える人がいなかったからです。もしくは、考える人はいても彼らは大きな案件専属で、制作会社に回すような中小規模の案件には出てこないからです。
当時はそんな風に考えることなく、代理店がチャンスを与えてくれているんだと前向きに捉えていました。ですが、代理店担当者はなにも考えない人で「2時間後までにできるだけアイディア考えて」というざっくりした指示だけ出してくるような感じでした。
アイディアを考えるにあたり、ターゲットは誰なのかを聞いても明確な答えももらえず、ひたすら闇雲にアイディアを考え提出しては採用されない日々。仕方なくこちらで適切なターゲット像を考え提案しようとしたところ上司から「アイディアを考えるのがお前の仕事なんだから余計なことをするな」と怒られてしまいました。
つまり、代理店担当者がクライアントに「たくさんアイディアを考えてきました」と言うための材料を作ることが私の仕事だったのです。
構想側の仕事についた人たちは、構想が好きというよりは、ビジネス上、上流ポジションで給料が良いから構想側を選んでいる場合がほとんどです。そのため、構想することに対する労力はなるべく削減し、生産性を上げたいと考えることが普通です。挙句「他社の事例を引っ張ってくる」ことで仕事を済ませる人が本当に多い。
他社の事例に寄せたモノ構想を、言われた通り作らされる実行側。モチベーションなどわきようがありません。さきほど「世の中にないモノ」「面白いモノ」「自分が欲しいモノ」「すごい儲かるモノ」を構想した時、実行する面倒を超えるモチベーションが湧くとお話しましたが、つまりモチベーションとは「他がやってないモノ」を作るときに生まれるです。他がすでにやっているモノを作ることにモチベーションが湧くのは、効率よくお金を稼ぎたい構想側の人間だけです。
そもそも資本主義とは、資本を持つ側が楽できるようになる仕組みです。ここまでお話してきたようなことは起こるべくして起きています。ですが共産主義革命など、資本主義を壊そうとしたところで悲惨な結果に終わることも見えています。
DX、アジャイルとは、そんな資本主義のやり方を否定せず、働き手のモチベーションの復権を目指した改革なのかもしれません。
まとめ「アジャイルは、分業化の弊害に向き合うきっかけ」
アジャイルとは、モチベーションの再構築なのではないかという仮説について考察しました。
●アジャイルは、チーム内で上下の序列をなくし、平等に意見を述べあいながら開発していく手法。つまり、分業の悪しき慣習をなくしていく手法なのではないか。
●分業により「構想」と「実行」が分解された。それにより「実行の面倒を超えてまでやるべきモチベーションを持つ構想」が少なくなっていった。
●構想側が構想を手放している。また、構想側のモチベーションは効率よく利益を得ることであり、本来の「他がやっていないこと」を構想するモチベーションとズレてしまう。
今回はほぼ考察中心でしたが突き詰めれば突き詰めるほど、改めてアジャイルを浸透させることのむずかしさがイメージできました。「構想」と「実行」という考え方をうまくリセットする必要があるわけです。
『社会分業論』を書いたフランスの社会学者、エミール・デュケルムは「分業が過度に進展する近代社会では機能を統合する相互作業の営みが欠如し、共通の規範が育たない」と指摘していました。
分業化の弊害は、分業化が始まった当初から予測されていたことだったということです。その弊害といま、向き合う時期が来ているということなのかもしれません。
参考:
『人新世の「資本論」』発行:集英社新書 著者:斎藤幸平
執筆者
リビルダーズ編集部